【最長片道切符の旅#42】ローカル線を逃したミスを全力で解消しつつ鹿児島・熊本を奔走

最長片道切符の旅42日目。本日は2023年5月11日(木)。鹿児島県の鹿児島中央駅から旅をスタートしていきます…。と見せかけて、昨日(41日目)に起こったハプニングの影響で、逆方向の吉松駅へ戻ってから移動をしていく必要があります。

詳細は41日目の記事をご確認頂きたいところですが、簡単におさらいすると、昨日乗車しようとした吉都線の列車に運休が生じるというハプニングが発生。約3時間後の次の列車で移動することになったのです。昨日の本来の最終目的地は鹿児島中央駅でしたが、この旅のルールで定めた移動時間内にたどり着けないことになったのです。現時点で鹿児島中央駅にいるのはホテルの関係。昨日のハプニング発生の時点で鹿児島中央駅付近で昨晩のホテルを予約してしまっていたので、やむをえず、ルールにかかわらず移動し、結果的に先回りをして鹿児島中央駅にいることになります。そのため、ルールを無視して移動した吉松・鹿児島中央駅間は無効とみなし、改めてルールに準拠した移動をしないといけないという事態が発生しているのです。

※最長片道切符の概要・詳しいルールについてはこちらからご覧ください。

また、これにより、予め定めていた旅程にも大幅なスケジュール変更が生じており、これがそのビフォーアフターになります。いうまでもなく、本日の旅程はアフターの方で進めていくこととなります。

【BEFORE: 当初の42日目の旅程】
■ 鹿児島観光
  ・維新ふるさと館
■ 鹿児島中央駅 (10:29発)
↓ 鹿児島本線 普通
■ 川内駅 (11:19着/11:35発)
↓ 九州新幹線 つばめ316号
■ 熊本駅 (12:19着)
■ 熊本観光
 ● 熊本駅前 (12:35発)
 ↓ 熊本市電 A系統
 ● 熊本城・市役所前 (12:50着)
  ・昼食
  ・熊本城
 ● 熊本城・市役所前 (15:06発)
 ↓ 熊本市電 A系統
 ● 熊本駅前 (15:24着)
■ 熊本駅 (15:42発)
↓ 九州新幹線 さくら562号
■ 久留米駅 (16:03着/16:40発)
↓ 久大本線 普通
■ 日田駅 (17:54着)

変更前のルート

【AFTER: 変更後の42日目の旅程】
■ 鹿児島中央駅 (6:27発)
↓ 鹿児島本線・日豊本線 普通
■ 隼人駅 (7:05着/7:07発)
↓ 肥薩線 普通
■ 吉松駅 (8:05着/9:10発)
↓ 肥薩線 普通
■ 隼人駅 (10:02着/10:08発)
↓ 日豊本線・鹿児島本線 普通
■ 鹿児島中央駅 (10:58着)
■ 鹿児島観光
  ・維新ふるさと館
■ 鹿児島中央駅 (12:30発)
↓ 鹿児島本線 普通
■ 川内駅 (13:19着/13:57発)
↓ 九州新幹線 さくら558号
■ 熊本駅 (14:41着)
■ 熊本観光
 ● 熊本駅前 (14:55発)
 ↓ 熊本市電 A系統
 ● 熊本城・市役所前 (15:10着)
  ・熊本城
 ● 熊本城・市役所前 (16:29発)
 ↓ 熊本市電 A系統
 ● 熊本駅前 (16:48着)
■ 熊本駅 (17:04発)
↓ 九州新幹線 さくら568号
■ 久留米駅 (17:26着)

変更後のルート(日田駅にはたどり着けない)

旅程変更のポイントは先述の吉松駅まで戻ってから移動をすることに加え、各地で観光の時間が短縮化されていること、そして、最大のポイントは最終目的地が変更になっていることです。旅のルールを満たしながらも何とか当初の予定である日田駅までたどり着くことができないか模索をしたものの、かなわず、本日の最終目的地は久留米駅へと変更となりました。そのおかげでホテルの取り直しが生じる始末…(前日キャンセルした日田のホテルには別機会に訪問がかないました)。つまるところ、昨日のハプニングによる旅程の遅れは本日中に解消ができないということです。ローカル線、恐ろしや…(何よりもこんな変な縛りルールを作った自分を恨んでいるが)。

【6:27発/8:05着】 完全に罰ゲーム、吉松駅まで強制送還

出発時間が当初の予定よりも約2時間早まり、本日は5時起き。昨晩は深夜1時頃まで計画の修正に追われていたため、圧倒的寝不足状態。体内に鉛が入っているかのように重たいですが、やるしかないのです。

鹿児島中央駅
早朝の鹿児島中央駅

まずは日豊本線、普通 国分行きに乗車して隼人駅まで戻ります。ちなみに、吉松駅までは別途乗車券を購入しています。昨日の吉松・鹿児島中央駅間とあわせて余計に1往復をしており、その金額は計3,000円。時間的にも痛手ですが、経済的にも痛手です。おまけに、この乗車券は昨晩に用意をしていたものですが、その際に誤って鹿児島中央・隼人駅間の自由席特急券を購入してしまっており、払戻の手続きという余計な仕事を増やしてしまっている始末…。疲れているなと…。

鹿児島中央駅
6時27分発の列車で隼人駅へ。

見どころは後ほどに回し、話は計画修正時のことに遡ります。計画修正の際に考えていたことはいかに早期に当初の予定に戻すかというところ。その点で、昨晩は一番早く吉松・鹿児島中央駅間を往復できる方法を考えていたのです(最長片道切符のルート外の移動のため、手段は何でもよい)。その過程で、霧島市内にある鹿児島空港経由で吉松駅の隣駅である栗野駅までバスで抜ける方法、また、同じく、鹿児島空港までバス利用をして、徒歩で肥薩線の途中駅、中福良駅まで徒歩移動をする手段などを検討。しかし結局のところ、正攻法である隼人駅経由の鉄道利用が一番早く楽であることがわかり、昨日行った道をそのまま引き返す方法を使っています。

話は現在に戻り、現在乗車中の列車は817系。JR九州らしくスタイリッシュではあるものの、座席は残念ながら、基本的にロングシート。近年までクロスシートだった覚えがありますが、変わってしまったようです。また、意外と乗客の利用があり、立っていく羽目になりました。

鹿児島湾と桜島
早朝の桜島の姿 (鹿児島・竜ヶ水駅間)

途中駅ではまだ6時台にもかかわらず、次々と乗車してくる高校生の姿。朝早いなあと思っていましたが、恐らくは九州の高校によくある「朝課外」によるものかと予想。朝課外とは正規の授業が始まる前に補修授業が行われるもので、7時台から始まるらしいです。だとすれば、九州の高校生はもちろん、親御さん・教職員の皆さんは大変なものです。現在では朝課外は廃止されるケースも出ているらしく、関係者の負担は多少は和らぐのかもしれません。

鹿児島中央駅から約40分で隼人駅へ到着。ここで肥薩線の吉松行きに乗車し、終点の吉松駅まで乗車します。肥薩線の霧島温泉駅付近に高校があるため、そこに通う高校生で始発駅の隼人駅からかなり混雑。車両の中ほどに追いやられ、霧島温泉駅までは車窓がほとんど見られなかったものの、この区間はまた乗車するので痛くもかゆくもありません (何なら、昨日も同じ区間を乗車しているので)。ただし、最後まで体力がもつか…。

隼人駅停車中の肥薩線の列車
隼人駅で肥薩線に乗り換え。

霧島温泉駅で高校生の皆さんが下車し、一気に列車は空気輸送状態に。ボックスシートに腰をかけて体力を温存しつつ、吉松駅へ向かいました。

【9:10発/10:02着】 霧島連峰に古い駅舎、見どころ多い肥薩線に乗車 (3回目)

それではようやく本日の旅のスタート地点、吉松駅へ到着。再度、隼人方面へ折り返しますが、出発時刻までは約1時間も…。

吉松駅
吉松駅

それでも、吉松駅は比較的暇つぶしがしやすい場所で、駅前広場には鉄道関連の展示物や施設があるのです。吉松駅は現在、ローカル線の肥薩線と吉都線が交わる駅ですが、これらの路線はかつての鹿児島本線・日豊本線のルートであり、交通の要衝となっていました。そのような立地上、かつては吉松機関区が構内にあり、駅周辺には多くの国鉄職員やその家族が暮らしていたことから、「鉄道の街」といわれています。駅前広場の施設はこの歴史に因むもので、C55形蒸気機関車の展示や資料館、食堂・売店のある観光SL会館という建物があります。とはいっても、朝早かったので屋外施設しか見られなかったのですが…。

吉松駅
吉松駅構内。かつては機関区があった。
吉松駅のC55形蒸気機関車
吉松駅の駅前広場に静態保存されたC55形蒸気機関車
観光SL会館
観光SL会館

また、これだけではなく、駅前には「吉松駅前温泉」という源泉かけ流しが売りの温泉施設もあります。こちらに関しては朝から営業しているのがありがたい点。しかし、この時はスーツケースをはじめ、大きな荷物が多かったので、利用は控えることに(施設が小規模なため、邪魔になるかもしれないと思ったため)。結局、”地の利”を活かせず、待合室で待ちぼうけ状態となる始末…。それでも、待合室内は肥薩線の歴史に関するちょっとした展示やストリートピアノ、様々な装飾などがあり、空間を盛り上げようとする努力が垣間見られました。しかし、そんな吉松駅は現在、機関区はもちろん、その後継となる吉松運輸センターという運行拠点も廃止。さらには無人駅となってしまい、いまではひっそりとした駅となっています。

吉松駅の改札口
吉松駅の改札口。現在は無人駅となっている。

待合室で過ごしているうちに、次の列車の時間が到来。最長片道切符のルートとしての移動が始まります。ここまでも十分まとまった距離の移動(吉松・鹿児島中央駅間: 68.5km)でしたが、ここからが本番の移動です。肥薩線の普通 隼人行きに乗車して、終点の隼人駅まで向かいます(要は戻るだけ)。

肥薩線のキハ40系気動車
肥薩線のキハ40系気動車(先ほどの折り返し列車)

現在乗車している肥薩線は実質、吉松駅が起点駅みたいな位置づけとなっていますが、実際は八代駅(熊本県)から人吉・吉松駅を経由して隼人駅まで至る路線。しかしながら、熊本県を襲った令和2年豪雨による被害の影響で、八代・吉松駅間は長期で運転を見合わせており、吉松・隼人駅間(鹿児島県の区間)のみの運行となっています。全線で運行されていた際はJR九州管内でも有数の観光路線とされ、全線にわたり、複数の観光列車が運行されていたものの、運休区間の八代・吉松駅間はもちろん、現在も運行が続いている吉松駅以南の観光列車(特急はやとの風)も巻き添えを喰らうがごとく、運行終了となってしまい、現在は普通列車のみが行き来する状態となっています。

さて、吉松駅を出発すると、霧島連峰の栗野岳(標高: 1,102m)がお目見え。時々山間に入り、視界が遮られますが、栗野駅付近まで眺めることができます。その後は山間の景色に変化。その際に、要注目の無人駅が2駅見られます。

霧島連峰の栗野岳
霧島連峰。真ん中が栗野岳のはず(吉松・栗野駅間)。

まずは栗野駅の隣駅である大隅横川駅。1903年の開業時から現存する古い木造駅舎が特徴です。駅周辺は太平洋戦争による空襲を経験しており、駅舎の柱には機銃掃射による攻撃の跡が現在も残っています。霧島温泉の玄関口である霧島温泉駅の次の駅、嘉例川駅も同様に、開業時からの木造駅舎が現存します。大隅横川駅とともに、駅舎は登録有形文化財に指定されており、いまでは観光地としても有名になっています。

大隅横川駅の駅舎
大隅横川駅(車窓から)
大隅横川駅の駅舎
大隅横川駅の駅舎 (別機会に直接訪問)
嘉例川駅
嘉例川駅 (車窓から)
嘉例川駅
嘉例川駅 (別機会に直接訪問)

表木山駅を出発すると、列車は複数のトンネルを越えながら、霧島市の市街地へアプローチをかけます。その際に市街地を見下ろす車窓がちょっとした見どころです。市街地へ入ると、日豊本線へ合流して終点の隼人駅へ到着となります。

霧島市市街地の車窓
霧島市市街地を見下ろす(表木山・日当山駅間)
隼人駅
隼人駅

【10:08発/10:58着】 錦江湾と桜島を見ながら再度鹿児島中央へ

隼人駅では日豊本線の普通 鹿児島中央行きに乗り換えて、終点の鹿児島中央駅へ向かいます。

日豊本線の817系電車
日豊本線の817系電車(鹿児島中央駅で撮影)

隼人駅での乗換の際に、まさかのクルーズトレイン「ななつ星in九州」と遭遇 (恐らく回送列車)。ななつ星は臨時の寝台列車で、寝台はすべてスイートの個室、ほかに、ラウンジカーやサロンカー、さらには茶室の設備を持つ贅を尽くした車両となっています。季節ごとにコースが変わるため、神出鬼没の列車のひとつで、多くの旅行・鉄道好きにとっては憧れの存在です。しかし、最安のコースでも65万円(1泊2日)という強気のお値段設定。我々のような一般庶民は外観だけ見てその存在を崇め奉るしかありません。

ななつ星in九州
ななつ星in九州
ななつ星in九州のエンブレム
ななつ星in九州のエンブレム

さて、夢はほどほどに、基本ロングシートの817系電車に乗り込みます。先述の通り、内装は良い車両ではあるものの、ロングシートであることに加え、元々転換クロスシートでの座席を横向きにしただけなので、枕部分が邪魔して車窓を楽しむにはちょっと不向きな車両です。ただ、座席にはクッション性のある革を使っており、普通列車にしては座り心地はよいため、憎むにも憎めない車両だったりします。

車窓の見どころは重富・鹿児島駅間における鹿児島湾(錦江湾)と奥に聳える桜島の景色。鹿児島市の市街地が間近であることがにわかに信じがたいほど、雄大な車窓が広がります。実に、直近の24時間でこの車窓を3回も見ていますが、この瞬間に限っては見ていて心が癒されます。

午前中の鹿児島湾と桜島の車窓
午前中の鹿児島湾と桜島の車窓① (重富・竜ヶ水駅間)
午前中の鹿児島湾と桜島の車窓
午前中の鹿児島湾と桜島の車窓② (竜ヶ水・鹿児島駅間)

この景色の良い区間にあるのは竜ヶ水駅。鹿児島駅の隣に位置しながら、ほとんどの普通列車に通過される小さな駅で、乗車中の普通列車もこの駅を通過します(実際はすれ違いのために運転停車を行ったが)。駅周辺は線路の崖下の国道沿いに若干の民家やガソリンスタンド、個人商店が複数あるのみで、その反対側は崖が聳えるロケーション。こちら側にはほとんど人家がありません。というのも、この一帯は1993年8月の豪雨による土石流で集落が流されてしまった歴史があり、駅構内も土砂で埋まるという甚大な被害を受けた場所です。その際、竜ヶ水駅付近を走行中だった列車の運転士があえて崩れそうな場所に列車を停車させ、車両を堤防代わりとしたうえで、乗客を避難誘導したエピソードがいまでも語り継がれています。

トンネルを通過すると、突如として市街地へ入り、鹿児島駅へ到着。駅名的に県の代表駅のように思えるものの、現在は鹿児島中央駅が代表駅となっています。しかし、駅としての歴史は鹿児島駅の方が古く、ここで日豊本線から鹿児島本線へと路線の境目を跨ぐことになります(運行上の境目は鹿児島中央駅)。また、鹿児島駅前には市電の起点もあり、かつての代表駅としての繁栄を感じ取ることができます。

鹿児島駅付近
鹿児島駅付近。ロータリー奥側を市電が走る。

一区間だけ鹿児島本線を走行すると、終点の鹿児島中央駅へ到着です。先ほどまでは”先回り”の形で、訪れていましたが、これでようやく正式な形での到達となりました。

鹿児島中央駅の駅名標
鹿児島中央駅の駅名標
鹿児島中央駅の駅舎
鹿児島中央駅の駅舎

【11:05-12:25】 鹿児島で維新推進した偉人について学ぶ

鹿児島中央駅で下車をして、鹿児島市内を散策していきます。本来の予定では昨晩の温泉と合わせて、トータルの時間として観光にもう少し時間をかける予定でしたが、昨晩の温泉はなし、本日分の観光にかけられる時間も短くなってしまい、滞在できる時間は約1時間30分(市内の移動時間込)のみとなります。そこで、今回は1箇所のみ。「維新ふるさと館」に立ち寄っていきます。観覧車がトレードマークの駅ビルから徒歩10分で到着します。

鹿児島中央駅の駅ビル
鹿児島中央駅の駅ビル
維新ふるさと館
維新ふるさと館

鹿児島といえば、明治維新を推進した旧・薩摩藩の藩士が連想されます。維新ふるさと館は薩摩藩の歴史や明治維新における日本の変化について、豊富な展示資料でその歴史を学べる観光施設です。明治維新に携わった人物として有名なのが西郷隆盛と大久保利通ですが、維新ふるさと館においてもこの2人が中心人物として語られていた印象でした。その中でも中学校の歴史の授業では語られないようなエピソードが個人的には印象に残りました。

西郷隆盛と大久保利通
西郷隆盛(蝋人形・幕の右側)と大久保利通(幕の左側)

ざっくりと、薩摩藩の西郷・大久保は敵対していた長州藩と薩長同盟を結び、戊辰戦争などを通して倒幕を進め、明治新政府を樹立させたということ、その後、九州各地を舞台とした士族反乱の一環で西南戦争が起こるという史実が歴史の授業で扱われる内容だったかと思います。今回の維新ふるさと館の訪問でもう少しこの裏側が見えたような気がします。

まず、西郷と大久保は幼馴染であったということ。薩摩藩の制度では「郷中(ごじゅう)」というものがあり、小単位のグループを組み、その中で師弟関係を持ち、学問や武術が教えられるという文化がありました。彼らは同じ郷中で育ちました。彼らはどちらも下級武士の身分ではあったものの、当時の藩主であった島津斉彬(なりあきら)の側近して抜擢され、ともに倒幕運動を展開していったことになります。同列な存在として語られますが、史実から語られる両者のイメージは対照的です。西郷はイメージ通りで、現在でも「西郷どん」と呼ばれるなど、鹿児島を中心に親しみを持たれる存在です。実際のところ、戊辰戦争でも敗戦した敵陣にも寛大な態度を見せるなど、徳を積み重ね、敵陣からも慕われるほどの存在だったそうです。それに対し、ギャップがあるのは大久保の方。大久保はものごとを慎重に熟慮して、一度決断したことは徹底的にやり抜く性格から、「冷徹なリアリスト」としてのイメージが根付いています。実際のところ、明治新政府の立ち上げに当たってはいわば”用済み”となった武士の反乱を押しのけてでも、明治維新を遂行しています。その典型例となったのが西南戦争。西郷はその直前に、征韓論(朝鮮出兵)を巡る意見の相違から政府から去り、里帰りしていますが、その際に、士族による新政府への不満を抑えきれず、やむをえず西南戦争を起こしています。そんな西郷軍に大久保は新政府軍を率いて、西郷軍を制圧。これにより、西郷は自刃に至っています。大久保が冷徹といわれるのはこの史実に基づいたものですが、実際のところ、西郷が死に至ったことを大久保が聞いた際は狼狽していたという証言があったり、公費を補うために個人名義で借金をしたりといった人間的なエピソードもあります。

このように史実だけでなく、ストーリーとして歴史を捉えられると、興味深くとらえられるので、自分が中学生のときからこのことに気づけていればなあと思った次第です(当時、地理は好きだったが歴史は嫌いだった)。

と、それっぽいことを言っておりますが、実際は旅の疲れがでてしまい、内容が頭に入って来なかったので、写真を撮って(館内は基本写真可)、後から復習している次第です。結局どちらにせよ、途中で時間切れになってすべて見切れていないので、これでも歴史の全体は捕らえきれていない気はしています。

鹿児島市街地にある大久保利通像
鹿児島市街地にある大久保利通像

その関係で、時間ギリギリの状態で鹿児島中央駅へ帰還。その時点で列車の出発まではあと5分。疲れた体に鞭を打ちつつ、急いでホームへ移動していきます。

鹿児島中央駅
昼下がりの鹿児島中央駅

【12:30発/13:19着】 鹿児島本線で川内駅へ

出発2分前にホームへ到着。鹿児島本線の普通 川内行きで終点の川内駅へ向かいます。車両は817系でやはりほぼほぼロングシート。割と乗客の姿が見られ、鹿児島中央駅出発時点でほぼ座席が埋まっていました。

鹿児島本線の817系電車
鹿児島本線の817系電車(川内駅で撮影)

車窓的にはこれといったポイントはなく、全体的に山間を縫って走る区間が多い印象です。その中で、伊集院駅・串木野駅付近はまとまった市街地が広がります。昼下がりの時間帯ではあるものの、途中の上伊集院駅からは学校帰りと思われる高校生の姿が多く、立ち客が出るほどの利用状況に。また、沿線には甲子園をはじめ、スポーツで有名な神村学園があり、近くには神村学園前駅も存在します。ここからもちらほらと学校帰りの高校生の姿が見られました。

約50分の乗車で、終点の川内駅へ到着。鹿児島本線の区間はここで「一旦」、終わりとなります。在来線についてはこの先は肥薩おれんじ鉄道しかないため、川内駅から九州新幹線へ乗り換えて九州を北上していくことになります。

川内駅の在来線ホームの駅名標
川内駅の在来線ホームの駅名標

【13:57発/14:41着】九州新幹線で熊本駅へ

先述の通り、川内駅では九州新幹線へ乗換えとなりますが、接続時間は40分弱。お昼時なので食事も取りたいところですが、時間的に少し心許ない状況なので、新幹線の車内で昼食とすることに。そのため、この接続時間で昼食を調達することとしました。事前に「極 黒豚めし」という駅弁があるという情報を仕入れていたものの、それらしきものはなく、結局、おにぎりとファミチキを購入することに。また、このタイミングで先述の買い間違いの自由席特急券を払戻しも実施。見事に払戻手数料220円がかかってしまいました。

川内駅の新幹線ホームの駅名標
川内駅の新幹線ホームの駅名標

さて、川内駅から乗車するのはさくら558号、新大阪行き。熊本駅まで乗車します。短区間利用なので、自由席を利用。川内駅出発時点で窓側の座席が8-9割ほど埋まっており、思ったよりも乗客は多い印象です。

九州新幹線のN700系
九州新幹線のN700系(JR九州所属車両)

ちなみに、このタイミングで新幹線に乗車した理由は先述の通り、鹿児島本線が川内駅で「一旦」終わるからですが、もともと鹿児島本線は博多方面と一体となっていました。分断されたきっかけはこの九州新幹線。九州新幹線はまず、2004年に新八代・鹿児島中央駅間で部分開通をしています。その際に、並行在来線として、並行区間の一部である八代・川内駅間がJRから肥薩おれんじ鉄道に三セク化、経営移管となりました。その結果、鹿児島本線は門司港・八代駅間、川内・鹿児島駅間と2つの区間が生じ、その分断区間を肥薩おれんじ鉄道が取り持つこととなっています。

そのため、新幹線一択の状態となり、ある種の消極的理由で新幹線を利用していますが、やはり新幹線は速く、快適であるのは確かです。しかし、所要時間は短いため、早速、川内駅での戦利品(昼食)をテーブルに広げて束の間の昼食タイムとしました。先述の通り、品目はおにぎりとファミチキ。おにぎりは駅舎にあったおにぎり店で仕入れてきたものです。具は高菜明太子を選択。サイズが大きいので1個にしましたが、思った以上に美味しく、2個にすればよかったと少し後悔。包装が工夫されており、時間が経っても、のりがパリパリなのが嬉しいです。ファミチキはやはり安定の美味しさでした。

新幹線車内で昼食 (ファミチキとおにぎり)

乗車中の列車は熊本駅まで各駅に停まるタイプの列車。途中の出水・新水俣駅間で熊本県に入っており、昼食を終えてひと段落した頃には列車は新八代駅を出発するところでした。ここまでのほとんどはトンネルでしたが、新八代駅から先、熊本駅までは平野部を駆け抜けていきます。この区間の前半は田んぼが広がり、後半になると宇土市の市街地、そして、熊本市の市街地の中を走ります。

新八代駅
新八代駅
八代平野の車窓(新八代・熊本駅間)
熊本駅付近の車窓
熊本駅付近

今回乗車した車両はJR九州のN700系新幹線。JR九州の車両、そして、熊本発着のみで流れる「おてもやん」のアレンジメロディで始まる到着放送を聞くと、まもなく熊本駅へ到着となります。

熊本駅の駅名標
熊本駅の駅名標

【14:41-17:04】 熊本地震から復旧が進む熊本城を散策

九州新幹線を熊本駅で降り立ち、ここから熊本観光のお時間です。

熊本駅
熊本駅

本来であれば、昼食に熊本ラーメンを頂く予定がありましたが、昨日の件でその時間は削減対象となり、訪問は1箇所のみ。その場所は熊本城です。ちなみに、熊本城へ滞在できる時間は正味約1時間。急いで回る必要がありそうです。

早速、熊本駅前から熊本市電に乗車して、熊本城まで行きます。熊本駅における熊本市電の接続が便利で、駅前広場から直接電車に乗れるのが便利です。熊本市電の車内は平日日中にかかわらず、多くの乗客で混雑しています。熊本市の中心市街地は熊本駅から若干離れており、そこへのアクセスも市電を使うとスムーズです。特に、途中にある辛島町付近は商業施設などが充実している印象でした。

熊本市電の熊本駅前電停
熊本市電の熊本駅前電停

市電に乗車すること約15分、熊本城・市役所前電停で下車。ここからしばらく歩いて熊本城を目指します。熊本城への道中でも坪井川に沿って築かれた長さ242mの長塀を見ることができ、要塞に近づいている感覚を持てます。城郭入口の近くにある観光商業施設の「桜の馬場城彩苑」を通り、特別公開南口から敷地へ入っていきます。

熊本城・市役所前電停
熊本城・市役所前電停
熊本城の長塀
熊本城の長塀

熊本といえば、2016年の熊本地震が記憶に新しいですが、熊本城は大きな被害を受けており、まだ復旧の途上にあります。その関係で、高架の特別見学通路を設ける形で、敷地の一部を見学する形となっています。

特別見学通路を通って早速見えてくるのが「数寄屋丸」の建物。能や茶会、歌会、接客の場所として使われてきましたが、建物下の石垣が崩れ、建物にたわみが出ている様子がありました。

熊本城の数寄屋丸
数寄屋丸。石垣が崩れている。

少し進むと奥側に天守閣が見え、その手前には本丸御殿が見えます。その下には「二様の石垣」という立派な石垣があります。名称の通り、2種類の石垣がありますが、作られた時代が違うとのこと。色で見分けることができ、黒っぽい方が古い方で傾斜が緩やかなのが特徴。一方で、白い方は新しい方で傾斜が急となっています。また、この本丸御殿は2つの石垣を跨ぐように建設されており、天守閣までの道中で本丸御殿の床下を通るルートが設けられています。これを「闇り(くらがり)通路」と呼びます。

熊本城の天守側面
天守閣(側面)と本丸御殿の一部
二様の石垣
本丸御殿を支える立派な石垣
闇り通路
本丸御殿の下を通る闇り通路
熊本城の闇り通路
闇り通路

闇り通路を通ると、天守閣へ到着します。天守閣も熊本地震により大きな被害を受けたものの、熊本のシンボルとして最優先で復旧工事が行われ、2021年に復旧を果たしました。内部は熊本城の歴史や構造に関する展示が行われています。

熊本城の天守閣
熊本城の天守閣(左側が大天守・右側が小天守)

この展示によると、この地に熊本城が建築される以前は、別の場所に城郭があり、これを「隈本城」と表記していました。現在の「熊本城」は熊本藩の初代藩主、加藤清正により1607年に完成します。作られた当時においては平屋づくりの建物が主流だった時代でしたが、熊本城の天守は複雑な構造をもつ高層建築であり、加藤清正が築いた大天守は6階建て、隣接して息子の忠広が築いた小天守は4階建てです。

防衛・軍事拠点としての意匠も至る所に取り入れられており、その典型例は「石落し」。外壁や床に設けられた開口部を設けることで、石や弓矢、鉄砲などで死角の敵への攻撃を可能としています。また、石階段にも意匠が見られます。1階と小天守の地階の間には石階段が設けられていますが、石段の一番上から1階の床までは1mの段差があり、通常は2段の箱段を置いて往来するものの、緊急時にはその箱段を外すことで1階へ上ることを難しくしているそうです。

加藤家による治世が終わりを迎えた後は細川家に引き継がれます。その頃、加藤家による築城から25年以上が経っていた熊本城は修理の必要が出ており、細川忠利やその後継によってさらに整備・拡張をされていきました。細川家による統治は11代239年にわたり、続いてきましたが、明治維新により熊本城の本来の役割は終えます。

その後、一度熊本城の解体が予定されるも、結局は行われず、そのまま敷地は陸軍用地へと転用され、近代陸軍の拠点として軍都の中心となっていきました。後に、熊本城は西南戦争の舞台となり、天守閣や本丸御殿が焼失するも、1960年に再建されています。現在は先述の通り、熊本地震からの復旧に追われている時期であり、完全復旧は2052年になる見通しとのこと。熊本城の歴史としては大変な時期になると思いますが、これもいずれは歴史の一部として刻まれることになるのでしょう。

最上階には展望台があり、熊本の街並みを眺めることができます。熊本市の人口は約74万人(2024年5月)で、県内の人口の約43%が市内に集中していることもあり、遠くの方まで市街地が広がっていることが見て取れます。

天守閣最上階からの景色
天守閣最上階からの風景

展示内容がかなり充実しており、後半がかなり急ぎ足になってしまいましたが、何とか一通り目を通して熊本城を後に。再度、熊本城・市役所前電停から市電に乗車して、熊本駅へと引き返しました。

【17:04発/17:26着】 九州新幹線で久留米駅へ

鹿児島と同様、せわしない観光となってしまいましたが、これにて熊本観光は終了。熊本駅から移動を再開していきます。

熊本駅
熊本駅へ帰還。
熊本駅のくまモン
駅でくまモンが埋まっていた。

再度新幹線ホームへ上がり、九州新幹線のさくら568号 新大阪行きに乗車し、久留米駅まで行きます。距離が近いので、自由席を選択しましたが、熊本駅出発する時点で、窓側は8-9割が埋まっていた印象。乗車前は座れないかと思ったほどです。

九州新幹線のN700系
九州新幹線のN700系(JR西日本所属車)

熊本駅を出発すると、次の停車駅は久留米駅までノンストップ。その間、新玉名・新大牟田・筑後船小屋駅の3駅を連続で通過していきます。新玉名・新大牟田の両駅は「新」とつくように、九州新幹線の単独駅として開業した駅。どちらも玉名市、および大牟田市の市街地から離れており、新玉名駅周辺は田園地帯、新大牟田駅周辺は住宅地と、新幹線駅らしくない雰囲気となっています。

新玉名駅付近の車窓
新玉名駅付近

新大牟田駅からは福岡県へ入っていますが、熊本県区間はトンネルが多めである一方、福岡県の筑後平野に入ると、トンネルの数がだいぶ減り、田園地帯を駆け抜けるようになります。その区間にあるのが筑後船小屋駅。鹿児島本線との乗換駅で、新幹線開業前は普通列車しか止まらない駅でしたが、新幹線が開業し、大出世を遂げた駅です。全国でも珍しく、築後広域公園という公園の敷地内にある駅で、福岡ソフトバンクホークスの二軍~四軍の本拠地である「HAWKSベースボールパーク筑後」が車窓から望めます。

筑後船小屋駅付近のHAWKSベースボールパーク筑後
筑後船小屋駅付近のHAWKSベースボールパーク筑後

市街地へ入ると、まもなく久留米駅へ到着となります。近年開業した新幹線にありがちですが、それぞれ駅間は近いため、3駅を通過するといえども、所要時間はたったの22分とあっという間の乗車となりました。

久留米駅に降り立ち、これで本日の移動は終了です。当初の計画では久大本線に乗車して大分県の日田駅まで行く予定でしたが、この先ルールの範囲では途中(筑後吉井駅)までしか行けないため、ここでストップとすることにしました。翌日となってもハプニングの解消がしきれず、明日も引き続き、旅程の変更をしながら移動を続けていくことになります。

久留米駅の駅名標
久留米駅の駅名標
久留米駅の新幹線ホーム
久留米駅の新幹線ホーム
久留米駅
久留米駅

【19:15/19:40】 とんこつラーメン発祥の地、久留米で久留米ラーメンを喰らう

久留米駅に到着後、バスでホテルまで移動。チェックインして落ち着いた後は最寄りの西鉄久留米駅近くで夕食タイムとすることに。

西鉄久留米駅
西鉄久留米駅

久留米市は豚骨ラーメン発祥の地。そのせいか、東京における地下鉄の駅のごとく、適当に街を歩いていてもラーメン屋に当たるほど、ラーメン屋の数が多い印象で、その度に独特な豚骨の匂いが立ち込めてきます。ということで、熊本でラーメンにありつけなかったこともあり、夕食はご当地の久留米ラーメン(豚骨)とすることにしました。

そこで、西鉄久留米駅から徒歩3分の「久留米らーめん道 麺志」さんに立ち寄り。当然ながら久留米ラーメンが看板メニューで、こってり・あっさりの二択で選べます。また、久留米名物のダルム(豚の腸のこと)の炭火焼をのっけた「久留米ダルム丼」や「おばぁちゃんの高菜めし」などサイドメニューもあります。

久留米ラーメン道 麺志
久留米ラーメン道 麺志

今回は久留米ラーメン(こってり)とおばぁちゃんの高菜めしを注文しました。ラーメンは麺は固めで頼んでいたので、歯応えが残ってよい食感。スープは白濁で濃厚です。一方で、独特の臭みはそこまででもなく、食べやすかったです。思わず、替え玉まで頼んでしまいました。高菜めしについても、箸休めとしてよい仕事をしてくれました。

久留米ラーメンとおばぁちゃんの高菜めし
久留米ラーメン(こってり)とおばぁちゃんの高菜めし

それではバタバタした一日でしたが、本日の旅程はこれにて終了。明日も引き続き、昨日のハプニングの解消が続いていきます。お疲れ様でした。

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