【最長片道切符の旅#45】西九州新幹線開通でできた長崎の”ループ”を辿りゴールへ

最長片道切符の旅45日目。本日は2023年5月14日(日)。長崎県の喜々津駅からスタートしていきます。そして、なにより本日が最長片道切符の有効期限の最終日。実は、最長片道切符の有効期間開始日から通算すると既に56日目であり(記事上のカウントは編集の便宜上の日数)、達成できようができなかろうが本日でこの旅が終了となります。
(最長片道切符の概要はこちらからご覧ください)

【旅程: 最長片道切符の旅45日目】

■ 喜々津駅 (8:52発)
↓ 長崎本線/大村線 普通
■ 新大村駅 (9:20着/9:31発)
↓ 西九州新幹線 かもめ14号
■ 武雄温泉駅 (9:45着/9:51発)
↓ 佐世保線 普通
■ 早岐駅 (10:25着/10:53発)
↓ 佐世保線 普通
■ 佐世保駅 (11:06着)
■ 佐世保観光 (長崎)
 ● 佐世保駅前 (11:23発)
 ↓ 西肥バス
 ● 佐世保市総合医療センター入口 (11:31着)
  ・海上自衛隊佐世保史料館
  ・昼食
  ・カトリック三浦町教会
■ 佐世保駅 (15:10発)
↓ 大村線 区間快速シーサイドライナー
■ 新大村駅 (16:11着)

本日のルートのポイントは2点。1つ目は本日で最終目的地のゴール、新大村駅へたどり着く必要があること、そして、2つ目は最後に新大村駅を中心に一周するルートを取ること。JRがある一枚の切符(乗車券)を発行するにあたってはざっくりと「行った道を引き返せない」「一周を越えられない」(フリーパスを除く) の2つの大きな原則がありますが、これは後者を応用したものです。「一周を越えられない」というのは「一周まではできること」と言い換えができ、最後にこれを実行して、旅が締めくくられるという形になります。尚、上記のルートのうち、最初の2駅の区間、喜々津・諫早駅間は最長片道切符のルート外となるため、実質は諫早・新大村(2回目)駅間を移動していくことになります。

この日の朝の気持ちとしては「やっと終わるのか」という安心感が3分の1、「もう終わるのか」という寂しさが3分の1、そして、残りの3分の1は「絶対にヘマできない」(本日中にゴールできないということがあってはならない)という気持ちです。それでも、本日は一日中晴天の予報とのこと。列車の運休など、ダイヤ乱れが起こらないことを願いつつ、旅を始めて行きます。

【8:52発/9:20着】 大村線で一度目の新大村駅へ

それでは長崎本線の喜々津駅から移動を開始していきます。乗車するのは大村線直通の佐世保行き普通列車です。車両は西九州ですっかりおなじみとなったYC1系気動車の4両編成。これで新大村駅まで行きます。

喜々津駅
喜々津駅
YC1系気動車
YC1系気動車

しばらく乗車していると、諫早市の市街地へ入り、諫早駅へ到着。西九州新幹線も駅を構える大きな駅で、開業したばかりの新幹線の設備は新しさを感じさせます。ここまでは長崎本線の区間を走行していましたが、諫早駅を境にそのまま大村線へ直通していきます。また、ここまでは最長片道切符のルート外を乗車していましたが、諫早駅からルート内へ復帰していきます。

西九州新幹線の諫早駅
西九州新幹線の諫早駅

諫早駅を出発すると、長崎本線の線路から分岐して、大村線の単独区間へ。少しの間、西九州新幹線の高架と並走しますが、やがて離れていきます。諫早市の市街地が終わると、鈴田峠を通過し、北隣の大村市の市街地へアプローチをかけていきます。岩松・大村駅間では一瞬ながら大村湾の車窓が望めるのが特徴です。そしてまもなく、大村駅へ到着。列車内からは気づきにくいですが、大村駅は大正期の1918年に竣工した古い木造駅舎があるのが特徴です。造りは洋風な感じで、正面から見るといわゆる「ハイカラ」さを感じられるデザインです。

大村湾の車窓
岩松・大村駅間で見える大村湾

大村駅出発後も、引き続き市街地を進むと、新大村駅へ到着です。「着いたー!」と思いたくなりますが、冒頭の通り、これで終わりではなく、むしろ、ここからが本日のルートの真骨頂です。

新大村駅の駅名標
新大村駅。しかし、まだゴールではない。

【9:31発/9:45着】 開通してまもない西九州新幹線で武雄温泉へ

ここからは新大村駅を中心に一周を始めることになります。ここで西九州新幹線に乗り換え。かもめ14号の武雄温泉行きで武雄温泉駅まで向かいます。当時は西九州新幹線が開業してまだ8ヶ月という頃合い。自分としても今回が西九州新幹線に乗車する初の機会となるので、気持ちが舞い上がります。そもそものところで、新大村駅は西九州新幹線開業と同時に在来線の駅とともに開業した駅。そんな新しい駅に訪れることができた時点でも感動ものです。

ホームへ上がると新幹線の接近放送が。特に何の変哲もないアナウンスではありますが、どこかやはり興奮するものです。そして、JR九州仕様のN700系S新幹線が入線。車体には毛筆で「かもめ」の文字。ポスターなどの媒体で西九州新幹線の車両には目に触れていましたが、その本物をいま目の前にしたときの喜びたるや、何ともいえません。

西九州新幹線 新大村駅における電光掲示
西九州新幹線 新大村駅における電光掲示
西九州新幹線のN700系S
西九州新幹線のN700系S

今回は自由席の先頭車両を利用。号車ごとに若干、シートのデザインが違うようですが、自由席の車両のシートは黄色いモケットでした。車内には多少の装飾はあるものの、そこまでは派手ではなく、JR九州にしては比較的落ち着きのある印象でした。

西九州新幹線「かもめ」号の自由席車内
西九州新幹線「かもめ」号の自由席車内

新大村駅を出発してまもなく、熊本総合車両所大村車両管理室(車両基地)が見えてきます。大村車両管理室は西九州新幹線の車両が所属する車両基地。車両のほとんどの検査も含めて、大村車両管理室内で行われるようですが、台車検査に関しては熊本で受ける体制になっているようです。

大村車両管理室の一部
大村車両管理室の一部

肝心な車窓についてはほとんどがトンネルだった印象。しかし、新大村・嬉野温泉駅間の明かり区間で一瞬だけ大村湾が見ることができました。途中で佐賀県へ進入し、次の嬉野温泉駅へ到着。西九州新幹線の単独駅で、新幹線開業とともに開業した駅です。駅名の通り、嬉野温泉の温泉街が駅から約1.5kmのところにあります。嬉野温泉駅を出発すると、次が武雄温泉駅。両駅の駅間は10.9kmと新幹線にしてはかなり近く、嬉野温泉駅を出発してまだスピードが乗らないタイミングで早速、武雄温泉駅の到着放送が流れます。この区間においても、ほとんどがトンネルで、一連のトンネルを抜けると、佐世保線の線路としばらく並走して終点の武雄温泉駅へ到着します。

大村湾の車窓
一瞬だけ大村湾が見える(新大村・嬉野温泉駅間)
嬉野温泉駅
嬉野温泉駅
武雄温泉駅の新幹線ホーム
武雄温泉駅の新幹線ホーム

この時点で、西九州新幹線は武雄温泉・長崎駅間のみの部分開業となっており、計画上の区間、博多・武雄温泉駅間はまだ未開業という状態。そもそも、着工どころかルートすらも決まっていないというカオスさはあるものの、やはり乗ってみるとなぜか受け入れられてしまうのが不思議なところです。

現状、武雄温泉駅より博多方へは新幹線のつなぎ役である「リレーかもめ号」へ乗り換える形となっており、乗換の手間や時間のロスを極力減らすべく、武雄温泉駅では対面乗換ができるようにホームが構成されています。接続時間も短めで、色々工夫していることが窺がえます。こういったことから、旅客案内上は武雄温泉行きの新幹線であっても、行先は博多行きとして案内されている光景が見受けられました(逆に、博多駅から武雄温泉駅へ向かうリレーかもめ号でも長崎行きという案内がされる)。

西九州新幹線を一通り満喫し、武雄温泉駅で降車。降車後も西九州新幹線に乗車できた興奮が冷めやらず、しばらく車両などの撮影を続けてしまいました。

武雄温泉駅の新幹線ホームにおける駅名標
武雄温泉駅の新幹線ホームにおける駅名標
西九州新幹線のN700系S「つばめ」号
西九州新幹線のN700系S「つばめ」号
西九州新幹線のN700系S「つばめ」号 (車体側面)
西九州新幹線のN700系S「つばめ」号 (車体側面)

【9:51発/10:25着】 佐世保線で早岐駅へ

武雄温泉駅からは先述のリレーかもめ号には乗り換えず、むしろ逆方向の佐世保方面へ進むことになります。その場合は対面乗換ではなく、ホーム間を移動する必要がでてきます。ここで、武雄温泉駅の構造に引っ掛けを喰らうことに。

自分の認識では、新幹線と在来線の乗換駅では大抵、新幹線・在来線の連絡改札があるという認識があり、武雄温泉駅もそのような構造であると考えていたものの…。実際は一旦、新幹線改札から改札外に出てから、また在来線改札へ入り直す構造だったようでした。つまり、1回ではなく2回改札を通過することになります。これを知らなかった自分はギリギリまで新幹線ホームで撮影を続けており、慌てる事態に。しかも、所持している最長片道切符は多経路のため、駅員さんの確認に時間がかかる傾向があり、土壇場度合に拍車がかかります。

最終日であることも相まって、絶対にしくじれないという思いの下、それをエネルギー源に何とか時間までに在来線ホームへ到着。それと同時に、次の列車がホームへ入線してきました。次の列車は佐世保線の普通 早岐行き。これで終点の早岐駅まで向かいます。何とか間に合い安堵した状態で、武雄温泉を出発。この時の車両はキハ47形気動車。この車両はボックスタイプの座席で、空いていたこともあり、ゆったりと移動することができたのが幸運でした。

佐世保線のキハ47形気動車
佐世保線のキハ47形気動車

武雄温泉駅を出発すると、西九州新幹線の高架としばらく並走し、そのうち徐々に離れていきます。新幹線の高架と並走している間に見えるのが御船山。ちょっとした山ではあるものの、突起が二箇所あることから、見た目が完全に猫耳なのが特徴です。

御船山の車窓
御船山が完全猫耳な件。(武雄温泉・永尾駅間)

しばらく乗車していると、列車は上有田駅へ。この駅が所在する有田町は有名な有田焼の産地。上有田駅はGW期間中に行われる有田陶器市の最寄り駅であり、上有田・有田駅間には有田焼の窯元が点在している様子が車窓からも確認できます。そして、次の有田駅は松浦鉄道西九州線との乗換駅。伊万里駅を経由して佐世保駅までを結ぶ路線で、かつては国鉄松浦線という国鉄が運営していた路線でした。有田・三河内駅間では再度、長崎県へ戻り、三河内駅へ。住所表記は「三川内」となっており、この一帯では三川内焼という陶磁器の生産が行われているらしいです。三河内駅を出発してしばらく、市街地へ入ると列車はまもなく終点の早岐駅へ到着となります。

有田町の車窓
真ん中付近に有田焼の窯元の煙突が見える。(上有田・有田駅間)
有田駅
有田駅
早岐駅の駅名標
早岐駅の駅名標
早岐駅到着後のキハ47形気動車
早岐駅到着後のキハ47形気動車

【10:53-15:10】西洋文化が入り混じる軍都、佐世保を散策

早岐駅からは大村線へ乗り換えて、新大村駅へゴールインするのが本来のところですが、一旦、ルートから逸脱してこの旅最後の観光をしに行きます。その舞台は佐世保。早岐駅も佐世保市にありますが、その中心地に行くべく、佐世保駅へ向かいます。

乗換時間があったのでルート外の乗車券の購入を兼ねて、一旦早岐駅の改札外へ。早岐駅は佐世保車両センターという車両基地が設置される運行拠点駅ですが、かつては機関区が設置されていた駅でもあります。その所以で、早岐駅東口近くには1897年に竣工した蒸気機関車の給水塔が現在も遺されています。ところどころが黒ずんでおり、その歴史を感じさせてくれます。

早岐駅東口
早岐駅東口
早岐駅近くにある給水塔
早岐駅近くにある給水塔

それでは別途乗車券を購入したところで、大村線方面から来た普通 佐世保行きに乗車。終点の佐世保駅まで乗車していきます。

YC1系気動車
大村線から直通してきたYC1系気動車だが…

ところで、これは後々気づいたことですが、この列車は先ほど喜々津・新大村駅間で乗車した列車と同一の便だったようです。本来であれば大村線経由で、一本で早岐駅まで行けるところ、今回のように新幹線や佐世保線でこねくりまわしたルートで行っても同じ列車に追いつけるのはなかなかの驚きです。その理由はこの列車が早岐駅で43分間も停車するダイヤが組まれていたから。このおかげで(?)、一旦降りた列車に追いつけるという芸当ができたわけです。

約15分の乗車で終点の佐世保駅へ到着。佐世保駅には「日本最西端」を謳う看板がところどころでお出迎えしてくれます。しかし、厳密にいえば「国内最西端のJR駅」といったところ。ものは言い様といったところでしょうか。また、JRの線路は佐世保駅で途切れるものの、その先には松浦鉄道の線路があるため、「果て感」は少し薄めです。

佐世保駅の駅名標
佐世保駅の駅名標
佐世保駅とYC1系気動車
佐世保駅に停車中のYC1系気動車
「日本最西端」の佐世保駅
「日本最西端」佐世保駅とあるが…

それでは佐世保駅で下車して、ここからこの旅最後の観光タイムです。最初の目的地までは少し距離があるので、片道分はバスを使って移動します。

佐世保駅東口
佐世保駅東口
西肥バス
乗車した西肥バス

佐世保駅前からバスに乗車すること8分、佐世保市総合医療センター入口バス停で下車。そこから歩くこと2分で最初の目的地、「海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)」へ到着。伝統的な建物と近代的なガラス張りのビルが入り混じったような外観が特徴です。このうち前者は旧海軍時代に将校の宿泊や福利厚生施設として利用していた旧・佐世保水交社の建物を一部改修したものを利用しています。海上自衛隊佐世保史料館は海軍や海上自衛隊の歴史や取り組み、艦船などのことについて学ぶ施設で、この7階建ての全階に豊富な展示資料が集められています。さすが官庁の施設だけあって、入場無料なのがありがたいです。

海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)
海上自衛隊佐世保史料館(セイルタワー)

大まかには一気に7Fに上がってから、徐々に下の階に下りながら展示を見ていく仕組みで、7Fは展望デッキと海上自衛隊のPRを目的とした映像スペース、6F~4Fは旧海軍の歴史、3Fは海上自衛隊の歴史や艦船、2Fは現代における海上自衛隊の活動、1Fは企画展示を扱っています。

まずは7Fで展望デッキからの景色を楽しみます。展望台からは西九州自動車道、佐世保市街の街並み、そして奥には佐世保港や佐世保湾を眺めることができます。また、佐世保港には海上自衛隊のものと思われる艦船が遠目に見ることができます。

海上自衛隊佐世保史料館からの景色
最上階からの景色

時間の関係で、映像コーナーは一部だけ見て6F~4Fの旧海軍の歴史を観覧。展示内容によると、最初に海防体制に着手されたのはアメリカのペリー艦隊が来航して以来のこと。このときに長崎海軍伝習所や長崎製鉄所(三菱重工長崎造船所の前身)が設立され、日本最初の軍艦である咸臨丸が太平洋横断を果たしたのもこの時期だそうです。倒幕後、海軍は明治新政府に引き継がれ、先進国の先例を吸収し、近代化を実現。その一例として、日清戦争の頃に海軍教育の基本的な制度と体系が完成したようです。中国と対立した日清戦争を通して、横須賀・呉・佐世保に鎮守府(拠点)が設置され、新鋭艦が増備されたものもこの時期です。恐らく、佐世保が軍事都市としての歴史を歩み始めたのはこの頃かと思われます。また、その後の日露戦争においては東郷平八郎が率いた戦艦「三笠」の活躍により日本が勝利。これによって日本が国際社会でも優勢に立ったといわれています。これは海軍の功績によるところが大きいでしょう。日露戦争終了後の1909年から陸海軍は航空機研究に着手し、1916年に操縦教育を開始、1922年には第一次世界展の青島攻略において、初めて実戦に参加をするに至りました。その後も開発・整備が進み、航空戦隊を開設していきました。一方で、第一次世界大戦以後は西欧中心から米国中心の世界秩序に変わったものの、日本はこの世界情勢の劇的変化を十分理解できず、ずれた動きを取るようになったようです。これが引き金となり、その後の太平洋戦争にて、米軍を主力とする連合軍に敗北するに至ります。終戦直前に米軍が日本各地に仕掛けた空爆によってあらゆる軍事施設やその関連施設が狙われますが、佐世保鎮守府もこれにより被害を受け、その後に鎮守府は廃止。まもなくして、海軍の歴史に幕を閉じるに至りました。

日本最初の軍艦「咸臨丸」
日本最初の軍艦「咸臨丸」
戦艦「三笠」
戦艦「三笠」

次に、3Fで海上自衛隊の歴史や艦船に関する展示を観覧。戦後は連合国による占領政策の下、日本も徐々に復興を遂げ、1951年より再び日本は独立をします。その最中、海軍が解散した後は警察予備隊・海上警備隊を経て、海上自衛隊が1954年に発足します。1957年には「国防の基本方針」が制定。艦艇や航空機の国産化、幹部候補生の教育の整備、人事制度の整備など、現在に海上自衛隊のあり方の基礎が築かれ、現在へ至ります。同じフロアには海上自衛隊の制服や階級章、艦艇の模型など、(多分)ミリオタよだれものの展示が多く見受けられました。2Fは海上自衛隊のいまの活動に関する展示を観覧。この辺から時間が足りなくなり、少し急ぎ足に。海上自衛隊で真っ先に思い浮かぶのは武力攻撃への対処ということで、護衛艦や航空機、潜水艦によって敵を撃破する等、生活から遠いところにいる姿がイメージされがちですが、平時においては遭難船舶や航空機の捜索や行方不明者の捜索・救助、救急患者や救急援護物資の輸送などを実施する等、我々にとって身近なところでも活躍をしているそうです。さらには南極での測量協力など、民生協力も行っているとのことです。艦内生活の様子についてもスケジュールが示されていましたが、隊員同士で寝食を共にするのはとても自分にはできないなと感心させられました。1Fは企画展示が行われており、佐世保基地の艦船などの写真や模型が展示されていましたが、あまり時間がなくしっかりと見られませんでした。同じフロアには売店があり、ミリオタが喜びそうな(多分)グッズが所狭しと並べられていました。

海上自衛隊の護衛艦「しらね」
海上自衛隊の護衛艦「しらね」
海上自衛隊の制服
海上自衛隊の制服
防衛記念章のバッジ
防衛記念章のバッジ

情報量がボリューミーながらも、普段接しない海上自衛隊などの情報に触れられ、満足して退館。復路は何となく佐世保駅の方向へ向かう形で、ふらっと歩いていきます。この時点で時刻は13時30分頃。このタイミングで昼食にしようとやってきたのが「さるくシティ4○3」。さるくシティ4○3は佐世保市の中心地にある商店街で、その直線距離は日本一といわれています。この時狙っていたのは佐世保バーガー。この付近にお目当てとしていたお店がありやってきたのですが、混雑している様子。混雑・行列嫌いな身としては入る気になれず、他を当たって探し当てたのが「ベースストリート 防空壕店」さん。さるくシティ4○3から少し外れた「とんねる横丁」という場所に立地します(佐世保駅から徒歩10分)。

佐世保バーガー「ベースストリート」
佐世保バーガーのお店「ベースストリート」

今回はそこでベーコンエッグチーズとポテトを頂くことに。そして、米軍の街として有名な佐世保ということで、アメリカのビール「バドワイザー」も注文。まっ昼間からお酒が楽しめるのも、鉄道の旅ならではです。そして、店内の雰囲気はアメリカの小さいバーガー屋さんのような感じ。そして、いかにも洋食シェフといったいで立ちのマスター(後で本当に元洋食シェフであったことが判明)が手作りで料理を作ってくれます。バーガーを焼くジュージュー音とポテトを揚げるカラカラ音が店内に響き渡り、食欲をそそります。待っている間もこういう楽しみがあるのはありがたいです。

バーガーについては、外はよく焼かれ中はジューシーなハンバーグ、シャキシャキなレタス、そしてスクランブルエッグが挟まっており、食感と食べ応え、味ともに満足感がありました。そして、個人的にバーガー以上に気に入ったのがポテト。外はカリッと、中はホックリしており、塩と胡椒が絶妙な加減で効いていました。何か変わったポイントがあるわけでないにしろ、いままで食べたポテトの中で指折りの美味しさを感じました。また、バドワイザーは単体で飲むと、個人的には少し物足りなさを感じますが、今回はバーガーやポテトにうまく調和しており、よき名脇役として活躍してくれました。これでお値段は1,500円ほど。バーガーにしては少し高めですが、しっかりと作られたバーガーやポテトにはこのくらいの価値があったように思います。これにて、最長片道切符の旅における最後の食事が終了。カジュアルながらも良い締めくくりでした。

アメリカのビール「バドワイザー」
アメリカのビール「バドワイザー」
佐世保バーガーとポテト
佐世保バーガーとポテト

退店後、ベースストリートがあるとんねる横丁や近隣の戸尾市場を少しだけ散歩。とんねる横丁はもともと防空壕だった場所に店舗が形成された商店街で、店内へ入ると、当時の防空壕を感じさせる内装を見ることができます。先ほどのベースストリートも例外でなく、店内には防空壕を感じさせる内装となっていました。近隣の戸尾市場はまるで時間が止まったかのような外観が特徴。令和の中に戦後の世界が残っているようなレトロさが魅力的でした。

とんねる横丁
戸尾市場
戸尾市場

これらの商店街を歩いた後はさらに駅方面へアプローチ。その道中にある「カトリック三浦町教会」に立ち寄り(佐世保駅から徒歩3分)。駅前を通る国道に面した場所にありますが、まるで下界を見下ろすがごとく、高台の上に聳え立っているゴシック様式の立派な建物です。カトリック三浦町教会は1897年に設立。軍港の設置により信者が急増した経緯から、現在の場所に移転、1931年に建立した歴史があります。

カトリック三浦町教会
カトリック三浦町教会

もちろん、普段はミサ等の信仰の場として使われているものの、観光客向けにも開放されており、少し見ていくことに。どうやらちょうど閉館作業中のようでしたが、管理人の方のご厚意で中に入ることができました。玄関を入ると、奥に向かってずらっと長椅子が並べられており、壁際の高いところにキリスト像。非常に高い天井と立派な柱にステンドグラス、そして白を基調とした落ち着いた空間が広がっていました。管理人の方の作業のジャマにならないように、サッと拝観して後にしました(内装の写真はありません)。

それでは教会から歩いて佐世保駅へ帰還…。したものの、列車まで時間があったため、駅の反対側すぐのところにある佐世保港を散策することに。佐世保港からは五島列島方面のフェリーが発着し、佐世保軍港クルーズといった観光船の拠点にもなっています。この時は定期船らしい船は見かけられなかったものの、「銀河丸」という船舶が停泊していました。調べてみると、海技教育を受ける学生向けの航海練習船であるとのこと。普段は東京港を拠点に活動しているようなので、佐世保でその姿をお目にかかれるのは恐らくレアだったのではないかと思います。また、この日は日曜ということもあり、ちょっとした津軽三味線の野外ライブが行われていた模様。佐世保の穏やかな海にジャカジャカとした津軽三味線の速いパッセージが演奏が響いていたのが少しシュールで面白かったです。

佐世保港
佐世保港
銀河丸
銀河丸

【15:10発/16:11着】 最後の列車、大村線から穏やかな大村湾を眺めながらゴールの新大村駅へ

列車の時間が近づいてきたので、今度こそ佐世保駅へ帰還。ここから移動を再開していきます。乗車するのは大村線直通の区間快速シーサイドライナー 長崎行き。これがこの旅における最後の列車で、最終目的地の新大村駅へ向かいます。ラストランナーとなったのはおなじみのYC1系気動車でした。

佐世保駅みなと口
佐世保駅みなと口
この旅最後の列車が表示された電光掲示(15:10の方)
YC1系気動車
最後の旅のお供。YC1系気動車。

列車は佐世保駅を出発。途中の早岐駅まではこれまでたどって来た道を引き返す形となります。早岐駅を境に、佐世保線から大村線へ進入。同時に、最長片道切符のルート内に戻り、ついに旅のクライマックスが始まります。

早岐駅
早岐駅

早岐駅を出発し、佐世保線と分かれた後に、見えてくるのは早岐瀬戸。一見、河川のように見えますが、早岐瀬戸は佐世保湾と大村湾をつなぐ海峡です。しばらくしてオランダ風の建物が見えると、ハウステンボス駅へ到着。いわずと知れた長崎県を代表するテーマパークです。日曜夕方ということもあり、駅には多くの乗客がいました。

早岐瀬戸とハウステンボス
早岐瀬戸とハウステンボス (ハウステンボス駅)

2駅先の小串郷駅を出発すると、しばらく断続的に大村湾の車窓が広がります。今日は予報通り、天気がずっと良く、海は穏やかな様相を見せていました。これが大村線の車窓のメインであり、この路線が旅の締めくくりでよかったと思わせてくれます。そのなかでも特に見どころとなるのが途中にある千綿駅。改装は経ているものの、開業当時の状態をイメージした駅舎があり、ホームに立つと目の前に大村湾の車窓が広がる光景が見られる駅です。今回は車内から眺めるのみとなりましたが、この絶景をお目当てにしているのか、この時は多くの来訪者で賑わっていました。

大村湾の車窓
大村湾の車窓
千綿駅
千綿駅
千綿駅付近の大村湾の景色
千綿駅付近の大村湾の景色

次の松原駅付近からは内陸に入ると同時に、西九州新幹線の線路に接近し、しばらく並走をしていきます。その区間の途中にあるのが大村車両基地駅。西九州新幹線の開業と同日に開業した新駅で、地元の大村市の要請により開業しています。大村車両基地駅を出発すると、新幹線の車窓から見た大村車両管理室(大村車両基地)の様子を一部見ることができます。この時はN700系S新幹線が1編成留置されている様子を目にできました。

大村車両基地駅
大村車両基地駅
大村車両管理室に留置中の西九州新幹線N700系S
大村車両管理室に留置中の西九州新幹線N700系S

そして、次は竹松駅。当時はそこまで注目を受けていない駅でしたが、投稿時点では最長片道切符の始発駅は当駅に変更となっており、界隈の一部からは注目されるようになっています。ちなみに、現在(投稿時点)は竹松駅から北海道の長万部駅へ至るルートが最長片道切符のルートとなっており、このようにちまちまと記事をマイペースで書いている最中に時代が変わってしまったということです。

そして、次がいよいよ終点の新大村駅。最長片道切符の旅を達成する嬉しさと旅が終わる寂しさが交錯した状態で過ごしていると、あっという間に新大村駅へ到着。一人旅の最中に基本独り言はいわないタイプですが、列車から下車した時には、思わず「終わったーー」と小さく独り言が漏れてしまいました。

着いたーー!
新大村駅
新大村駅

これをもって最長片道切符の旅を制覇!新大村駅は有人駅であるものの、駅員さんが配置されているのは新幹線側のみで、在来線側は実質無人駅となっています。そのため、完全に一人で喜びを噛みしめる形になるか…、といえばそうではなく、当時、新大村駅では最長片道切符の達成者に向けたサービスが行われていました。せっかくなので、最後にそのサービスを受けて帰ることにしました。

無事にゴール!最長片道切符の認定証を発行してもらう。そして帰宅。

最長片道切符の旅の達成者向けのサービスを受けに立ち寄ったのは新大村駅の観光案内所。当時、ここでは「最長片道切符の旅 達成認定書」の発行などを行っていました(経路変更につき、投稿時点でこのサービスは終了済み)。

事前にそのことを知っていたので、早速観光案内所へエントリー。観光案内所へ入った瞬間は係の方がいらっしゃらなかったものの、提示が必須となっていた最長片道切符を用意して待っていたところ、係の方が戻ってこられ、「こんにちは。あ、もしかして!?」と気さくに声をかけて下さいました。そして、そのことがわかると、係の方から盛大な祝福のお言葉をかけて下さいました。完全自己満な企画ではあったものの、いざ祝福の言葉を頂けると、純粋に嬉しいものです。

最長片道切符の旅の達成者向けのサービスは認定書だけでとどまらず、駅前広場にある大村市の市章を使って、「最長片道切符の旅 達成!」というパネルとともに記念写真をして頂けました。自分が取る写真撮影は好きであるものの、写真に写るのは嫌いな自分。しかし、これは一生ものの旅。ということで、撮影頂くことに。いやあ、お恥ずかしいもので…。

最長片道切符の旅 達成認定書
最長片道切符の旅 達成認定書 (動画より抜粋)
新大村駅で記念写真を撮って頂いた (市章の輪郭の中で”大”の字を作って市章を完成させるスタイルで撮るのが醍醐味らしい) ※動画より抜粋

さらに、この観光案内所では最長片道きっぷの旅の達成者の一覧を作成しており、そこに達成者の氏名(ペンネーム・匿名可)を入れるサービスも実施されていました。終着点が新大村駅になってからの達成者はこれで37人目。意外と挑戦する人が多いことに驚きました。係の方によると、春休みの時期に、学生さんを中心に実施する方が多いのだとか。中には自分も知っているYouTuberの方のお名前もあり、勝手に親近感を感じた次第です。

最長片道切符の旅 達成者一覧 (今更ですがハンドルネームはNEXです)

その後、長崎のここが良かったといった情報を交換をしたのち、丁重にお礼を言い、家路につきました。大村市内には長崎空港が近くにあったものの、時間が合わず、今回は福岡空港経由で東京へ戻ることに。これまで旅の進捗に追われていたため、約3週間ぶりの帰宅です。この後も、特に鉄道や航空便にダイヤの乱れはなく、日付を回るころに無事に東京の自宅に帰還。一生の記憶になるであろう壮大な45日間(通算56日間)、移動距離約11,000kmの旅はこれにて幕を閉じました。

【編集後記】最長片道切符の旅をおえての雑感などなど

最長片道切符の旅を無事に終えましたが、結論、全体的に不安の方が大きく、苦しいことも多く、正直なところ、ここまで大規模な旅は「二度とやらない」だろうと思います。

ただし、これは自分の準備段階のミスに起因するもの。事前に計画のための十分な時間を設けられぬまま、旅の開始日を迎えてしまい、旅をしながら計画を立てるということをやってきていました。

また、初期の油断も苦しい状況を生み出してしまったもう一つの原因と思います。最長片道切符の有効期間は56日間。この前代未聞の切符の有効日数を見て、すっかり油断した自分は途中で計画を練るために東京へ戻ったり、その時期にしか行けない別の旅行を入れたりしていたら、あれよあれよと日が経ってしまい、気づいたらペースを速めざるを得ない状況となっていたのです。

もともと旅の途中で、この旅紀行やYouTubeの動画の作成準備、そして、旅の費用の管理など、あらゆる事務作業を行う予定でいたところに、そこに今後の作戦を練るというミッションが加わる形となってしまい、旅程を終えても、ホテルで休む暇もないという日々でした。しかも、一時的に3日先の予定すら立っていないということもあり、経過日数に対して距離の進捗が追い付いていないことに焦りを感じたことも少なくありませんでした。その渦中で最初に立てたマイルールを途中で変えようか考えたことも一度や二度のことではありません。

実は(大げさに言うと)この旅を実行するために、7年間にわたって勤務した会社を退職するというちょっと常識では考えられない退職の仕方をしています。しかも、職場の方にはこの旅のことを打ち明けたうえで退職していますが、誰一人馬鹿にすることなく、応援をしてくださっていました。そのことを思うと、そう簡単に諦められない気持ちになり、初志貫徹の精神で最後までルールを変えず、旅を続行していきました。

旅の途中で多少のアクシデントはあったものの、マイルールと準備不足という、自分で蒔いた2つの種を回収して旅を終えることができ、旅人としてのレベル(?)を上げることができたものと勝手に思っています。

同じような旅を二度とやりたくない理由はもう一つ。それは「旅はほどほどにした方が面白い」という極めて当たり前のことに気づかされたからです。最長片道切符の旅の期間中はほぼほぼ旅漬けの毎日となっており、当然あらゆるところを回るので体力的に疲れるうえ、毎日のように環境が変わるので、精神的にも疲れます。また、普段は非日常たる旅が日常と化してしまうことで、通常では目にして感動できるようなものでも、普段の旅でその刺激に慣れて過ぎてしまうことにより、素晴らしいものを見ても心が動かなくなる、もしくはその動く幅が狭まっているように感じる場面がありました。その点では普段は日常生活をがんばり、そのご褒美として行く非日常としての旅行がやはり良いのではと感じた次第です。つまり、「旅は用法・用量を守って」ということ。個人的な見解としては薬や激辛料理などと一緒で刺激中毒は避けたいものです。

こんなネガティブなことを書きましたが一方で、この旅は実行してよかったと一点の曇りもなく思います。それは目的地まで最大限に遠回りをしながら旅をする中で、国内のあらゆるところを見るきっかけが生まれたからです。最長片道切符の旅は半強制的にルートが決まる性質の旅ですが、だからこそ訪れたり通過できたりした地域も多いかと思います。これで新たな知識を得たり、発見をしたことは確実にあり、非常に有意義な45日間を過ごせたと思っています。

そして、何よりすごいと思ったのが、ここまで距離を引き延ばせるほどに充実したJRの路線網。赤字路線を多数抱えており、社会問題の一つとなっている側面はありながらも、これだけの鉄道を安全に、そして、正確に運行し社会を支えているJR、そして各鉄道会社には尊敬の念を禁じえません。鉄道ファンの一人としてこの素晴らしき日本の鉄道が維持できるように、これからも少しでも乗って貢献したいと考えています。

ほかにもいろいろ思うことはありましたが、収拾がつかなくなりそうなので、この辺で最長片道切符の旅シリーズは終わりにします。リアル・ネット上でこの活動を支えていただいた方、JRや関係する鉄道会社の皆さま、各地で立ち寄った観光地の皆さま、そして、旅先で出会った方々、本当にありがとうございました。

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