【最長片道切符の旅#33】福井だけど関西な若狭小浜を観光し、東西のギャップ激しい舞鶴を旅する
最長片道切符の旅33日目。本日は2023年5月2日(火)。福井県の小浜駅から旅をスタートしていきます。
(最長片道切符の旅の概要はこちらからご覧ください)
【旅程: 最長片道切符の旅33日目(予定ベース)】
■ 小浜観光 (福井県)
・鯖街道ミュージアム
・小浜西組 (小浜町並み保存資料館)
・御食国若狭おばま食文化館
・昼食
■ 小浜駅 (12:30発)
↓ 小浜線 普通
■ 東舞鶴駅 (13:16着/13:23発)
↓ 舞鶴線 普通
■ 西舞鶴駅 (13:29着/13:40発)(※荷物預け)
↓ 舞鶴線 普通
■ 東舞鶴駅 (13:47着)
■ 舞鶴観光 (京都府)
・旧中舞鶴線跡(北吸トンネル)
・赤れんがパーク(赤れんが博物館)
● 市役所前 (15:14発)
↓ 京都交通(バス) 東西循環線(左回り)
● 千日前 (15:31着)
・田辺城跡 (舞鶴公園)
■ 西舞鶴駅 (17:08発)
↓ 舞鶴線 普通
■ 綾部駅 (17:29着/17:58発)
↓ 山陰本線 特急きのさき20号
■ 京都駅 (19:07着)
本日は最長片道切符の旅に特有なルートの非合理さに関しては、面白みはそこまでありませんが、車窓がきれいといわれる小浜線に乗車する点、そして、東西で成り立ちが全く異なる舞鶴市内を巡る点が本日のハイライトになりそうです。
【9:08-12:30】 「北陸というより関西」な小浜市内を散策
本日の移動を始める前に、まずは福井県内の観光として、小浜市内を散策していきます。昨夕、わざわざ小浜線の途中駅である小浜駅に降りていたのはこれが理由だったのです。先ほどの通り、小浜市は福井県の一地域。福井県というと北陸地方で、県庁所在地の福井や、北陸最大の都市である金沢と結びつきが強そうなイメージですが、小浜市を含め、敦賀市より西側の地域は福井よりも関西との結びつきの方が強いといわれます。そもそも、福井県はかつての越前国と若狭国が一つになった県で、越前国と若狭国では文化が違うといわれています。この区分でいえば、小浜市は若狭国の方に分類されます。いきなり解説が始まりましたが、これを前提に据えておくと、この後の話も理解が進みやすくなります。
ということで、まずは駅から徒歩6分の「鯖街道ミュージアム」へ足を運びます。「鯖街道」とは、京都へ物資を運ぶための道のことをいい、複数あったルートの総称です。小浜市は鯖街道の起点にあたり、現在でいう国道27号・国道303号・国道367号を経由する若狭街道のルートが代表的なルートになっていたようです(鉄道でいうと、小浜市内から湖西線の近江今津駅近くまで行き、湖西線のルートから山地を一つ隔てた西側を行くルート)。運んでいたのは食材、さらには鯖が主要な運搬物になっていたことに因み、「鯖街道」と呼ばれています。今回立ち寄る「鯖街道ミュージアム」では鯖街道のことをはじめ、小浜市の文化財や伝統芸能、祭礼等の紹介があるとのことで、それを期待していたのですが…。
まさかの休館日(定休日)でした。それでも、鯖街道ミュージアム前は鯖街道の起点となっており、それがわかる看板や展示などもあるので、なんとなく起点らしい雰囲気は感じることができます。
というわけで、こちらはまたの機会にして、次へスポットへ。「小浜西組」にある「小浜町並み保存資料館」を目指して歩きます。そもそも、「小浜西組」というのは江戸時代に設けられた町割の一地区のこと。小浜は中世の時点で、すでに日本海側屈指の港町として発展していましたが、1642年に小浜城が築城されると、小浜城を中心に城下町の町人地が新たに整備されることに。その際に、設けられたのが東・中・西の3つの組でした。小浜西組はそのうちの一つに当たります。小浜西組はその当時の街並みが残る伝統的建造物群保存地区となっており、1888年の大火以降に再建された建物を中心に、所狭しと建てられた町家が並ぶ街並みが整備されています。町家のほかにも、寺社仏閣や洋風の建築も混在しており、それらがちょっとしたアクセントになっています。
で、長くなりましたが、「小浜町並み保存資料館」は市民や観光客の憩いの場としての機能を持ちつつ、典型的な町家の内装も見られると聞いていたので立ち寄ることにしたのですが…。
こちらもまさかの休館日(定休日)でした(「ちゃんと調べておけよ」という声が聞こえてきそうです)。
仕方ないので、小浜西組の地区をある程度歩いた後は少し離れたスポットまで歩いていきます。それにしても、2箇所連続で休館を引き当ててしまったので、あとあと時間が余りそうな気が…。それはそうと、途中、海岸通りを歩いていると、その横には若狭湾が広がります。駅から最短距離で歩けば、約10分の場所となります。この日は快晴で、波は穏やか。日本海らしい濃い青と空の水色、奥に見える複雑な半島の地形がよい景色を生んでいます。そういえば、最長片道切符の旅において徒歩で海辺に来たことはいままでなかったなと。
そんな心地よい海辺を歩きたどり着いたのは「御食国(みけつくに)若狭おばま食文化館」(駅から徒歩20分)。先述の通り、鯖街道を通じて京都へ食材を届けていた小浜ですが、この営みは古代から続いています。つまり、小浜が属した若狭国は朝廷(現在の京都)に食材を献上とする御食国とされており、御食国若狭おばま食文化館は食をめぐる小浜の歴史や、日本の食文化に関する展示を行っています。
館内の展示によると、若狭国が朝廷に献上していた食材としては、先述のサバはもちろん、タラ、タイ、イカ、ナマコ、カニ、スズキ、コンブ、塩などが含まれます。まさに「海の宝石箱や~」(●摩呂氏風)と言いたくなるほどの豊富な海産物のラインナップ。ここまで豊富な海産物に恵まれたのは温暖地と寒冷地の中間に位置する若狭の自然的要因が大きいものといわれています。また、海だけでなく、山もあるため、山の幸にも恵まれており、その観点では南北に広い日本の食文化の縮図ような場所となっています。
このように若狭の食材が京都に運ばれた一方、京都からも様々な文化が若狭へ”輸入”されてきています。というのも、古代は義務的に行われていた食材の贈呈は、室町時代から、歳暮・初物の贈り物に変化した影響が大きいからといわれています。これと関係あるかは不明ですが、展示の中には、例えば、鯖の押しずしや丸餅・味噌仕立てのお雑煮などの料理スタイルは京都から入ったこともあり、小浜と京都(関西)との関係の深さを垣間見ることができます。もはや、若狭は京都府に編入した方がいいのではと(冗談)。ここまでに挙げたものはほんの一部ですが、全体的に興味深い展示内容が多く、先ほどの休館の件で空いた時間も無事に埋まり、結果的によい塩梅となりました。
また、思ったこととして、このような食文化に関する展示には食品サンプルをふんだんに用いているのですが、それがなかなか精巧なつくりだなと。勉強になる展示である一方、飯テロをされている気分にもなります。ということで、展示を一通り見たところで、昼食へ行くことに。
ちなみに、御食国若狭おばま食文化館では食に関する展示のほか、小浜の食材を使った調理体験や小浜の伝統工芸の販売・製作体験など小浜に関する発信が幅広く行われているので、時間がないときはワンストップでここを訪ねるのも一つの手かもしれません。また、同じ館内には地元の良質な湧き水を使った「濱の湯」という入浴施設もあるので、時間がある方はぜひ。
さて、若狭おばま食文化館を出た時点で時刻は11時過ぎ。列車は12時30分なので、出発前に昼食とすることに。前回書いたように、昨夜は開いているお店が少なく苦戦した一方、ランチに関しては候補となるお店が多く迷ったのですが、今回は駅から徒歩6分の「すし政本店」さんに立ち寄ることに。昨夜行こうとして行けなかったお店の一つです。
さすがは鯖の街、小浜。鯖関連の看板メニューがいくつかあり、その一つ、「サバチラシ」を注文。ご飯のうえにさば、錦糸玉子・しそが具材としてのっています。料理そのものはシンプルですが、皿の紋様が見た目に華やかさを添えます。普段は小骨の煩わしさなどが理由で、あまり魚を自ら食べないのですが、すでに解されていることもあり、身は柔らか。また、甘辛のタレがごはんや他の具材と絡まって美味しかったです。
【12:30発/13:47着】 小浜線で若狭湾を眺めながら舞鶴方面へ
それでは腹ごしらえを終えたところで、小浜駅へ帰還。ここから移動開始です。小浜線の東舞鶴行きに乗車して、昨日乗車した区間の続きを移動します。車両はクロスシートが中心の125系ですが、車内の窓側が空いていなかったため、立って乗車することに(列車は2両編成)。にしても、利用状況が危機的な状況にあるといわれる小浜線、それにもかかわらず、平日日中でこれだけ乗っているとは…。
それはともかく、昨日乗車した敦賀・小浜駅間は山や田園風景、湖などが望め、この時点でも車窓の変化に富んでいましたが、小浜駅を出発した小浜線の車窓はここでメインディッシュを迎えます。それが若狭湾の車窓。断続的ではあるものの、ふいに広がる若狭湾の青々とした車窓は心奪われるものがあります。若狭湾の車窓は三松駅付近まで見え続けます。
また、そんな区間にある駅のひとつ、加斗駅は少し面白い特徴を持つ駅です。加斗駅は一度無人化されていますが、その後、当時、駅前にあった理髪店が駅舎の事務室部分へ移転すると同時に、駅の簡易委託化(乗車券の販売のみを行う)が行われた駅です。この時点でも、鉄道ファンにとっては胸熱な展開ですが、理髪店が駅舎内に移転する以前からも、お店の夫妻のボランティアによって、駅の清掃や維持が休むことなく行われてきたという心温まるストーリーのある駅でもあります。
さて、三方駅を過ぎ、内陸へ入ってしばらく、青郷・松尾寺駅間で京都府へ進入。舞鶴市街へ入るとまもなく、終点の東舞鶴駅へ到着します。
東舞鶴駅からは別の列車に乗り換え。先の区間を走る福知山行きの列車に乗り換えていきます。「先の区間」と書きましたが、実態は別路線。東舞鶴駅から舞鶴線の区間へ入ります。ただし、線路はつながっているうえ、東舞鶴駅からは何か路線が分岐しているわけではないので、一般(非鉄)の方からすると、路線が違うことがわかりにくいところがあります(そもそも非鉄の方にとってはそんなことはどうでもよいと思うだろうが)。
列車は東舞鶴駅を出発するとしばらく市街地を通るものの、車窓は山の様相を呈し、トンネルを通過。と思えば、またすぐに市街地が広がり、次の西舞鶴駅へ到着します。今回は一旦、西舞鶴駅で下車。その後、また、行った道を逆行する形で東舞鶴駅へと戻ります。
一見、無意味な行動のようですが、西舞鶴駅で携行していた大きな荷物を預けていたのです。これから舞鶴観光を予定しており、身軽に動けるように、大サイズのコインロッカーがある西舞鶴駅へ一旦寄っていたということです(東舞鶴駅には中サイズまでのコインロッカーしかないとのこと)。駅名と先ほどの説明からも垣間見えるように、ここ、舞鶴市には東舞鶴駅と西舞鶴駅の2駅があり、その両方に市街地が広がります。しかし、この東西の市街地は山で分断されているのが特徴です。舞鶴市は東西は雰囲気が異なっており、実際のところ、その成り立ちも全く違うのが面白いのだとか。京都府内の観光も兼ねて、その舞鶴市内の様子を見てみようと事前に計画を立てていたのです。あ、この逆行分の行程は最長片道切符ルート外にあたり、別途運賃は支払っていますので、念のため。
それでは再度、東舞鶴駅へ戻り、ここで下車。舞鶴観光へと入っていきます。
【13:47-17:08】 東西で大きく性格が異なる舞鶴を散策
舞鶴観光を開始。先ほどの通り、舞鶴市は東西で成り立ちが違うので、東舞鶴・西舞鶴の両方を巡っていきます。そのため、東舞鶴駅を観光のスタートとして、西舞鶴駅をゴールとしていきます。まず、東舞鶴駅から「赤れんがパーク」へ向かっていきます。
しかし、この時、使う道にもこだわりたいところ。というのも、“面白い道”があるから。駅から5分歩くとその”面白い道”の始点へ行き着きます。周囲の道は普通な感じですが、ここは遊歩道となっており、地面のタイルや街灯のデザインが凝っているなど、少し洒落た雰囲気がでています。そして、しばらく進んでいるとトンネルが現れます。
このトンネルの名は「北吸トンネル」。断面は、普通の道路にあるような蒲鉾型ではなく、ヘッドホンのように下側が少しすぼんだ形をしています。この北吸トンネルはもともと鉄道用のトンネルだったのです。そして、この遊歩道は元の線路跡だったのです。この遊歩道をかつて通っていたのは舞鶴線の支線で通称「中舞鶴線」という路線。東舞鶴駅から海側(舞鶴湾の方向)へ向かって分岐し、一駅の途中駅を挟み、中舞鶴駅までを結んでいましたが、1972年に廃止となっています。現在はその一部が遊歩道となっています。北吸トンネルは赤れんがでできており、中は洒落た電灯で照らされており、歩いていても恐怖感はありません。しばらく歩いていると、駅名標が。「東門(とうもん)」と書いてあり、ここが唯一の中間駅跡であることがわかります。「東門」というのは開業時の駅名で、後に「北吸駅」に改称されています。そこからしばらく歩くと、遊歩道の終端となり、国道27号線に出ます。中舞鶴線はこの先、国道に沿って進み、約1.5km先の位置に中舞鶴駅があったようです。
国道を横切ってしばらく進むと、舞鶴湾へ到着。この付近では多数の艦船が停泊している姿が。近くには海上自衛隊の舞鶴基地が立地しており、そこに所属する船舶のようです。もともとこの場所には海上自衛隊の前身となる大日本帝国海軍の舞鶴鎮守府が立地しており、東舞鶴のいまの街の姿はこれがきっかけとなっています。元々、東舞鶴は半農半漁の小さな村でしたが、舞鶴鎮守府に所属する軍人やその家族が暮らせるように街づくりを推進。これがいまの街の姿につながっているようです。
そして、その軍港跡地付近には多数の赤れんが倉庫が立地しています。これを再開発した場所が今回の目的地の一つ、「赤れんがパーク」(東舞鶴駅から徒歩20分)です。もともと、赤れんが倉庫は水雷などの軍需物資の保管庫として明治から大正期にかけて建築されたもの。「赤れんがパーク」内はこれらを再利用する形で、レストランやカフェ、土産物売場、イベントスペースなどを運営しています。イメージのところでその雰囲気は横浜の赤れんが倉庫のある街区を凝縮したような感じがします(多分)。
商業施設の利用はほどほどに、今回の真の目的が同じく赤れんがパーク内にある「赤れんが博物館」。明治36年築の赤れんが倉庫を利用しており、創立当時、れんがをテーマとする博物館は世界初だったようです。その名の通り、館内は赤れんがによる建築物の展示が多数あり、エジプトや万里の長城に使われたれんがなどが展示されています。
しかしこれだけでなく、意外と鉄道に関する展示も充実しており、先ほど若干乗車した舞鶴線の鉄道設備に使われた赤れんがの展示もありました。その一環で、舞鶴周辺の鉄道史に関しても記述があり、これによると、先ほどの中舞鶴線は現役の舞鶴線の区間と同時に、舞鶴鎮守府までの兵員や軍需物資の輸送を目的に建設された路線であるとのことでした。最初に建設されたのは現在の福知山線を経由するルート。当初は途中の福知山駅までの開通だったため、福知山駅を境に、鉄道から川船に積み替えて、舞鶴まで輸送を行っていたようでした。しかし後に、福知山駅から綾部駅・東舞鶴駅(当時は新舞鶴駅)を経由する形で、中舞鶴駅まで鉄道が開通。これにより、舞鶴までの鉄道が全通することになりました。尚、現在の山陰本線のルート(京都駅からのルート)はこれに遅れをとって開通しています。つまるところ、舞鶴周辺の鉄道も、舞鶴鎮守府がきっかけであることがわかりました。ちなみに、中舞鶴線は軍港への引込線が延びており、現在の赤れんがパークの倉庫の内部まで線路が及んでいたそうです。いまも軌道跡が残っているらしいですが、訪問当時はそこへ足を延ばさなかったことが若干悔やまれます。
それでは赤れんがパークを後にし、最寄りの「市役所前」バス停から西舞鶴方面へ向かいます。道路でもやはり、トンネルを通り、西舞鶴へ進入。途中の「千日前」バス停で下車しました。そこから約3分歩き、たどり着いたのが「田辺城跡」です。
田辺城跡の入口には「2階建ての立派な門」が聳え立ちます。これは田辺城の大手門を模擬復興したもの。そして、門をくぐると、緑や水辺の広がる憩いの場のような空間が広がりますが、現在は「舞鶴公園」として、市民の憩いの場に変わっています。実際に、地域の子供たちが遊んでいる様子が見られました。一方で、天守閣など、当時の城を構成する構築物はあまり残っておらず、目立った城らしい建物は先述の大手門と、門を入って左手にある二重櫓程度です。
二重櫓の内部は「彰古館」として営業しており、上層は展望台、下層は田辺城の築城主である細川藤孝の生涯に関する展示があります。そして、先ほどくぐった大手門の2階部分は「田辺城資料館」となっており、ここで田辺城をはじめ、西舞鶴の歴史を学ぶことができます。
ここまで書くと察しがつくと思いますが、西舞鶴は田辺城を中心とした城下町として発展した街。田辺城は1582年に当時、舞鶴のある丹後国を統治した細川藤孝(後に「幽斎」に改名)によって築城。当時、東西は川に挟まれ、南は湿地、北は海という立地から守りに徹しやすかったことが地の利となったとのこと。城下町が発展した時期に関しては明記はなかったものの、恐らくは江戸時代。当時の田辺城は細川氏が丹後の地を去って以来、荒れ果てていたものの、初代田辺藩の藩主となった京極氏により再建。展示資料を見る限り、この時に城下町が発展したものと予想されます。当時の城下町は交易・商業の中心地として栄えており、旅人や商人たちが行き交い、野菜を売る露店も毎日開かれるほどの賑わったようです。また、西舞鶴を東西に分かつ高野川には各地から運搬された物資を保存する倉庫群もあり、港町らしい風景があったとのことです。ちなみに、「田辺城」の「田辺」とは舞鶴のかつての地名。紀伊国(現在の和歌山県周辺)や山城国(現在の京都府南部)にも「田辺」という地名があったことから、田辺城の雅号、「舞鶴(ぶがく)城」を由来として現在の「舞鶴」という地名がつけられました。
そんな西舞鶴の街は落ち着いており、西舞鶴駅周辺の商店街には平成名水百選に選ばれた「真名井の清水」の水汲み場があるなど、ほのぼのとした雰囲気がありました。
西舞鶴駅へ徒歩でたどり着き、これにて舞鶴観光は終了。一言でいうと、東舞鶴は明治期以降に発展した近代的な軍港都市、西舞鶴は昔ながらの落ち着いた城下町といった様相で、同じ市内ながらも東西で全く成り立ちの異なる一見の価値がある街でした。訪問の際は時間を取ってぜひ両方とも訪問してみて頂きたいです。
【17:08発/19:07着】 綾部駅を経由し、特急きのさき号で京都へ
それでは預けた荷物を回収して西舞鶴駅から移動再開。ここからは福知山行きの普通列車に乗車。舞鶴線の続きを乗車し、綾部駅まで乗車します。ちょうど学生さんの帰宅時間帯にあたり、立ち客が一両につき十数人程度(列車は2両編成)。この状態が下車駅の綾部駅まで続いていたように記憶しています。
舞鶴線の区間は短く、約20分の乗車で綾部駅へ到着。乗車した列車はそのまま山陰本線の福知山方面へ乗り入れますが、今回はここで降車。綾部駅で乗り換えのうえ、山陰本線経由で京都駅まで向かいます。
綾部駅は山陰本線の主要駅、そして、舞鶴線が分岐する交通の要衝にあたります。接続が約30分あり、この間に数本の列車が発着する様子を見ていたのですが、その時に奇妙な動きをする列車を発見。その列車は特急列車で京都方面から入線。行先表示を見ると、特急きのさき号の福知山行きの様子。当然、この列車は福知山方面へ向けて出発していきます。ここまでは普通の光景ですが、いざ後方を見ると、編成の一部が残されており、数分後に、先ほどのきのさき号が進んだ方向とは逆方向に進むという少し変わった光景が繰り広げられました(知っている人にとってはそんなでもないと思うが)。
訪問当時、周辺の交通事情に詳しくなかったので不思議に思ったのですが、反対方向へ進んでいた列車の正体は特急まいづる号の東舞鶴行き。綾部駅から見て、舞鶴線(東舞鶴方)の分岐箇所は京都方にあったので、スイッチバックをして舞鶴線方面へ進んでいったということです。また、綾部駅入線前は先述のきのさき号と併結をしており、当駅で切り離しを行っていたということです。あとあと詳しく調べてみると、綾部駅を通る列車として、ほかには、はしだて号という列車もあり、これら3種類の特急列車は時間帯によって併結する列車の組み合わせが違ったり、きのさき号の場合は単独で走る場合があるなど、やや複雑な運行体系になっているようです(詳しくは最下部の動画をご覧ください)。恐るべし京都の山陰特急。
さて、ようやく乗車予定の列車が到着。綾部駅からは特急きのさき20号の京都行きに乗車していきます(この便はきのさき号のみの単独運行)。全車指定席なので、乗車にあたっては予め席を抑えておきました。
綾部駅を出発すると舞鶴線と分かれ、山陰本線の線路を進みます。綾部市街の車窓はほどほどに、すぐに由良川に沿って走行していきます。由良川沿いの沿線では里山のある日本のよき田舎のような車窓を見せてくれます。和知駅付近で由良川と離れた後も、基本的にはローカル線のような風景が広がります。一方で、下山駅付近ではニュータウンが見えるなど、京都市街や周辺のベッドタウンとしての機能も兼ね備えていることが窺えます。胡麻(ごま)駅や鍼灸大学前駅といった少し変わった名前の駅(鍼灸大学前駅の由来となった明治鍼灸大学は現在、明治国際医療大学に改名している)を通過し、次の停車駅、園部駅へ到着。
園部駅より先は嵯峨野線という愛称がつき、線路は単線から複線に。車窓は田園風景に変わり、次の亀岡駅へ向かいます。亀岡駅を出発すると、進行方向左手の車窓に映るのが「サンガスタジアム by KYOCERA」。その向こうには保津川が流れており、有名な保津川下りの乗船場が付近にあります。このまま車窓は徐々に市街地めいてくるのかと思えば大間違い。次の馬堀駅を通過すると、比較的長いトンネルに入ります。短い明かり区間から見えるのは保津川の渓流。まさにこの区間が保津川下りの名物となっている場所です。現在、山陰本線はこの区間をトンネルで直線的に通過しますが、かつては蛇行する保津川にほぼ沿った形で線路が引かれていました。このかつての線路は一時廃線となっていましたが、現在は嵯峨野観光鉄道によってトロッコ列車が運行され、その車窓の良さが人気となっています。一連のトンネル区間を越えると、嵯峨嵐山駅を通過。その後は京都市街を通り、終点の京都駅へ向かっていきます。
綾部駅から約1時間10分で本日の最終目的地、京都駅へ到着です。さすがは国際観光都市の京都とあって、通勤通学客や観光客がごちゃ混ぜ状態。カオスな状況となっていました。今夜のホテルのチェックインは20時からだったため、チェックイン前に夕食を済まそうと思ったものの、周辺の飲食店もカオス状態。見た限りでは唯一空いていたなか卯で唐揚げ丼をかっ喰らうことに。空いていたとはいえども、来店前に多くの来客があったのか、はたまた、お店のオペレーションが回っていないのか、店内は汚く、返却台にも多くの食後の食器類が残されたままとなっていました。恐るべし京都。
ということで、翌日は早朝に京都を発ってしまうため、申し訳程度の京都の味覚の楽しみとして、ファミマで宇治抹茶のテリーヌショコラを買い、本日の旅程を終了としました。それではお疲れ様でした。
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